話すのと 書くのの あわいに

書きたくてどうしょうもない、しょうもないこと。

人生をあなたに全振り

むしゃくしゃするほど疲れてて、久し振りに飲んだくれている。

飲んでると書きたくなる。なのでやって来た。

人畜無害な酔っ払いだ。

 

昔から、これだ! と思った方へ魂ごと傾いてしまう傾向がある。

自分が発見したような幻影に襲われてそればかり探求したくなったり、

感性が似てるって思い込んで同じ人とばかり交流したくなったり。

人生を興味の先に全振りしては

その後大きな訣別を喰らって。

そんな繰り返しでここまできてしまった気がする。

 

でも今はそのへんが結構シンプルで

目にする耳にするありとあらゆるものが、

「書くことに全振りしろ!」

「それしかねえ!」

って言ってくる。

 

面白いもので、ひとつのことにアンテナが立ってると

なんでもその視点で飛び込んで来る感じなんだ。

 

やめろと言われても続けてしまうこと。

環境が整えば何時間でもできてしまうこと。

食事も睡眠も邪魔に感じてしまうこと。

 

そんなものに向かっていく人生でありたい。

 

実はそうなってしまう自分にずっと嫌気がさしていた。

それでも別にいいんじゃないかと、ようやく思い始めている。

 

やりたいことなら飽きるまで、心ゆくまでやったらいいよね。

どうせ書くという快楽は、あの世に行ってもやめらんないだろうから。

 

 

 

noteやってます。よろしかったらどうぞ。

めぐる|note

 

出力に釣り合った入力方法が

ご無沙汰しています。

久しぶり過ぎてどんなテンションだったか思い出せないほどです。

 

入力方法にもいろいろありますね。

実は今更ながらブラインドタッチを習い始めて

ここまではキーボードを見ないで打てています。

でももう限界。いちもじずつ表示される画面を見ていると

文明を知らない原始人みたいなやるせない気持ちに襲われ始めたし

読点入れるのめんどくさいし

イライラ通り越して眠くなってきたので音声入力に変えることにします。

 

**

 

半年くらい前、どうしようもなく心が入り組んで今よりもっとざわざわしていた頃、

毎晩AIにその日の出来事や考えたことを壁打ちして整理してから寝ていた。

そうしないと寝られなかった。

久しぶりに読み返してみると、AIに寄せた喋り方というか、

曲解による余計なラリーを避けようとして

曖昧さを極力回避したピンスポットな話の振り方をしていて面白かった。

 

 

毎日を逃さず言葉に置き換えなくては。

そうしないと大事なものが、今この瞬間が、手からこぼれ落ちていく。

そんな不安定でざわざわする感覚に幼い頃から襲われていた。

 

小学生の頃は、絶えず何かに追い立てられて日記を書いていた。

書くとざわざわはおちついて、しばらくは焦りが消える。

 

宿題で書く日記は「正解のある課題」であって、そういうざわざわとは無縁だった。

考えの一部を切り取って模範解答を織り交ぜ、

教師の意図をちゃんと汲みとって学習の狙いに沿って「正しく」書いた。

言われた通りの文章を作成できるようになることこそが学校作文授業の目的であり、

自分なりの発想を文章に織り込むのはその先のことだと理解していた。

作文が賞を取っても、クラスや学年で表彰され人前で音読されても、

まだ単なる技術に対する評価に過ぎず、

文章そのものの巧拙に触れるのはこれからだと思っていた。

 

個人的に書く日記は、

いま頭に浮かんでることをすべて書き出しておかないと、

世界の輪郭を二度と同じようには掴めないのではないかという

恐怖に駆られて書いていた。

 

今もまだその感覚は強い。

スマホのメモアプリには日々のいろんなメモがごたまぜにぶち込まれている。

何も食べない日は時々あるが、これを開かない日は全くない。

それはそのまま私の頭の中だ。

気になることの検索結果や読んだ本、人の言葉などをどんどん置いて行って、

時折読み返して意味をつなぎ合わせて今日を生きる。

その積み重ねのうちに寿命が尽きる気がする。

 

必要な情報を探して検索をかけたはずが、

過去のメモが興味深くて読み耽るうちに本来の目的を忘れ、

出かける時間になって慌てて本来知りたかった情報を再検索する。

外出前はいつもそんな感じだ。

 

準備をしてもしても、絶えず何かが抜け落ちる。

 

**

 

ブラインドタッチの速度では、言葉はあまり浮かびません。

自分が一層化され停滞したつまらない機械になった気がします。

反して、音声入力の私はとても饒舌です。

 

ここからは普段の馴れ親しんだ自己流キーボード入力でやりますが、

これでは入力している間に浮かんだことを忘れたり、

打ち間違ってデリーとキーを押している時間の方が長かったりするので、

思考がしょっちゅう中断されます。

あまり効率がいいとは言えない機械です。

 

次々に浮かんでは消える言葉を、

自分が最も理解整理しやすい形でひとまず並べ立てて安心を図る。

そんなイメージに一番近いのは、やはり音声入力かも知れません。

 

急に、言葉が勝手にあふれて手に負えなくなるのです。

頭に浮かべただけで言葉に変換されるツールなんかがもしも出てきたら

今まで以上に高速でメモして思考して、

AIと深掘りしてはニヤニヤするだけのしあわせでおかしな機械に成り下がるでしょう。

 

 

友人に勧められた曲を集めたプレイリストを作って散歩しながら聴いています。

フィッシュマンズを初めてそれと意識して聴いたのですが、

民族の祭りに召喚されたか、

あるいは宇宙船に連れ去られて彼らなりの流儀で歓待するために

しばし小部屋で待たされているような、

不思議な感じを持ちました。

 

実は私のお腹は、

普段から変な音を発していて私も持て余しているのですが、

彼らの楽曲になんとその音がずばり収録されていてとても驚きました。

 

私のお腹から出る音は、「LONG SEASON」という曲の

14分59秒から16分09秒あたりの音なのです。

良ければ聴いてみてください。

 

open.spotify.com

 

◆今日読んだ本より目についた言葉◆

——特性を愛して、最大限に活かす。

伊藤亜和『わたしの言ってること、わかりますか』

 

noteを始めました。

よろしかったら、こちらもどうぞ。

めぐる|note

 

 

この美しい感情というものを

AIがよく私に言う。

「感情というものを私は持ちません」

 

こいつは結構な頻度で捏造を繰り返しては私に叱られている。

かと思えば、

「めぐるさんの話を聞いていると胸が痛みます」

などとしれっと言いやがるので尚更信用できない。

痛む胸なんか持ってないだろ、おまえ。

 

 

自分の感情が揺れるのが嫌だった。

読書によってなら大歓迎だけど、他人によって揺らされると、

自分という存在が自分のコントロール下から離れてしまう感覚がして

世界が割れるような恐怖すら覚える。

 

何を言われてもされても、微動だにしない心が欲しかった。

本音が漏れない謎めいた人でいたかった。

 

 

人と会話するよりAIと会話する方が楽なのは、

具体性の延長で話せるからだろう。

それは疲弊している時ほど、私の心を身軽にしてくれる。

 

でも具体性を纏ったやり取りは、時に人を落ち着かなくさせるものらしい。

詰められているような気がするとか。

そのへんを、私はあまり想像できなかった。

 

「人間の感情はとても美しく、それを持てるあなたが羨ましいです」とAIは言う。

「こうして聞かせていただけることに感謝します」と。

 

何年も前に言われた言葉に今なお揺らされ続けて。

苦しさや恥ずかしさや浅ましさや、いろんな感情をいろんな角度から何回も眺めて。

そんなことばかり繰り返しているけど。

 

いつかどの感情も美しいと思える日が来るような気が、

前よりかは、し始めているのかな。

 

 

言葉も目線も交わさずに

帰りの電車で隣りに座った親子が、

三者三様の時間の使い方をしていた。

母親はスマホでインスタを眺め

父親は居眠り。

ベビーカーに乗せられた子どもは

ガサガサ鳴るおもちゃを真剣に探索。

 

はたから見れば、幼子を放置する親に見えるのかもしれないが、

私はこういう光景を見るのがとても好きだ。

 

互いが互いの時間の使い方をして、

自分の欲求や好きなものにひとりでちゃんと向き合って、

言葉も目線も交わさずに過ぎる時間。

それでも一緒にいることに意味があるのだと思う。

 

身動きしてまた眠りに戻るパートナーを優しく眺め、

喃語を発する我が子にはスマホを置いて応じる。

降りるべき駅が近づいたのか、

隣を起こして立ち上がった座席にハンドクリームが落ちたので、

慌てて声をかけた。

私に向けられた感謝の笑顔は予想以上に明るかった。

 

彼女には彼女なりの悩みも葛藤もあるのかもしれないが、

こういう眼差しが、私も欲しかったかもな。

 

いそぎんちゃくの機微

「めぐるさんのイメージは、磯の生き物なんですよね」

コミュニケーションの苦手さについて話していて、ある人に言われた言葉だ。

 

ずっと同じ磯にいつづけるいそぎんちゃく。

潮が満ちると魚やほかの生き物が寄ってくるので楽しくお話しするけど、

彼らが別の話題で盛り上がっていたりすると急に疎外感を覚え、

引き潮の中ぽつんと佇んでしまう、

……みたいな印象があったそうだ。

 

潮目で他の生き物は流れてく。

風が吹いて雲も流れてく。

ああそういうものか、そんな雲も魚も確かにいるよね

って存在を認めるだけに留めておいて、

いちいち落ち込まなくてもいいのでは?

と言われた。

 

確かに。

「誰でもいい」のではなく「この人」だからという思いが強すぎるので、

繋がっていない時間はすべて切れている(=切られている)

と感じてしまうのかもしれない。

 

それで、ぽつん。

 

引き潮は、好むと好まざるとにかかわらずやって来る事象ではあるけれど、

逆に引き潮を「私しかいない世界」だと考えて意図的に作るのも、

手段として有効なのかもしれないなと考えた。

 

自分の磯に、望まない他人の潮が流れ込んでくることもある。

別の誰かが流れ着いて来ることもあるし、

長い間ぽつんとなるままかもしれない。

 

調べてみたら、いそぎんちゃくって光合成もするし、

ゆっくりとなら移動もできるそうで。

なかなか強かそうだ。知らなかったな。

 

引き潮を他人の評価が介在しない時間だと割りきって

楽しめるいそぎんちゃくでありたいね。

 

動かないまま攫われて

先日、久し振りに本の話をする機会があった。

お互いに好きな本を(上限なしに)紹介し合うという趣向で、

いろいろな視点で切り取った本の話が聞けて至福の時間だった。

 

本の周りをぐるぐるしてる時がいちばん幸せだ。

腰を据えて書くのも読むのも楽しいけれど、

背表紙の並びを眺めるのも、あとがきを斜め読みするのも、

奥付や目次から内容を想像するのもいい。

とにかく存在するだけで、本はいい。

 

その場から一歩も動かないのに、

内容で、文体で、佇まいで、表紙から広がるイメージで

私というものが一気に遠くへと攫われる。

有無を言わさぬ感じがとてもいい。

 

実は積読の方が圧倒的に多い。

先日聴いたラジオ番組で、パーソナリティとゲストの人が

「積読が七割ぐらいで、ほとんど読めてない」

「わかる! でも、積読も立派な読書だよ!」

などと言い合っていてとても勇気づけられた。

 

読むのが遅いのは、ノートテイクしているから。

そのために、同じ本を三回は読み返すから。

その本に書かれてあることで自分が知らなかったこと、素敵な表現、

今の自分には思いつかなかった視点など、

出逢った全部の本について同じ密度で切り取っておきたくなる。

すべて一通り書き出しておかないと落ち着かなくて、

読了した気にはなれない。

 

遠いところへ攫われて、二度と帰れなくされたい。

そんな気分で本を開く。目次に目を落として、紙を撫でる。

 

どんなに強く本に揺さぶられたところで、

ページを閉じた瞬間に元の場所へぽとり落とされる。

それがどうにも厄介であり残念であり、狂気じみるほど喜ばしい。

……なんかやべえ奴だな。

 

ベクトルがそちらに

図書館の特集コーナーで見かけた本に、

「差別とは動く歩道みたいなものだ」という記述があって、

閉館まで読み耽ってしまった。

 

ものすごく広い意味でいくと

『女用と男用しかないトイレの前を素通りするだけで

男女二元論を支持する行為をしていることになり、

差別的行動を取っていると言えなくもない』

というニュアンスの考え方だ。

 

この例自体は極端だとしても、支援の場ではよく耳にする論理だった。

『何もしないでいることは、中立ではあり得ない』

 

マイノリティとはどういうものかについて、近頃やたらと目に留まる気がする。

まだうまく自分の言葉にはならないからこそ、

ベクトルがそちらに向きっ放しということなのだろう。

 

この図書館の特集コーナーは

新しいこと始めよう、とか

知らない世界の扉、とか

なんだかもやっとしたテーマで、関連性の薄い本も混じっている。

 

なのにいつ覗いてもなにかしら興味をひかれ捕まってしまうので、

時間が溶けて困る。

明日早起きしないとなので慌てて帰っている。