話すのと 書くのの あわいに

書きたくてどうしょうもない、しょうもないこと。

野菜を煮る今

変化が苦手で、なんでも決まってると安心できます。


仕事の手順も、食べ物着る物も、1年後のスケジュールも。洗剤などの消耗品はストックが切れるとソワソワしてしまいます。

なのに、誘われると何でもやってみたくなってしまって。
年明け早々無謀なチャレンジに手を染めることになりそう。(いやいや、犯罪ではありません、念の為)


三次大戦相手の言によれば、それは私の中の闘争心らしいのだけど。
自分では競争してるつもりはなくて、ただ鼓舞されて追い立てられてる感覚。

いいも悪いもないけど、時々つらい。

 

作品のプロットとブログのネタ、
大戦のこと、仕事や家族のこと、

上手くできなかったことばかり、

目まぐるしく考えてしまいます。

 

後悔と雑念と妄想で
頭の中がいつもとっ散らかっていて、
私が居るのは、大体は昔か未来。
今があまりないんですよね。

 

野菜を煮ていると、比較的、今に居られる気がしています。

(ひとつ脱稿。先は長い。)

 

《今日の野菜》

・人参とカット野菜(味噌汁)

・大根(きんぴら)

・大根(煮物)

・ふかし芋

 

どうしようもない私を

どうしようもなさにまつわるスペースを偶然聞いていました。

どうしようもない自分でも人とは関わりたい、どうしようもない自分で関わるしかないって、すごいジレンマじゃないかという話。

 

『わたしはこんなだけどあなたといたいし、あなたとかかわります、って、自他境界をしっかり引いて伝えること。
それで相手がノーだったら、人間関係は相互関係なので仕方ない。
リスペクトしながら自分を差し出す、ってことを繰り返すしかないね』

 

すごく分かるけど、これをやり続けるのってすごく難しいですね。

こんな自分でもいいって諦めるか、もしくは許すかして一旦は許容していないと、こんな境地には至れないのでは。

 

世の中はなんでも、バランスとタイミングで出来ていて、ご縁ってものもあるでしょうけど、

「なんで今そこー!」

ってなること、ざらにあるものねえ。

結局は、”こんな自分”が前へ前へ出てきてしまう。

 

『例えば私がなんもしないで立ってるだけでも、それが耐え難い人はいる。

関わる事を許される、って関係を作るのは、本来とても大変。

関わってもらって当然だと、みんな思いすぎでは』

 

すべての相手にこんな風に思えれば、もっと穏やかな人間関係になるのかな。

基本的には”生きていてごめんなさい”の国に住んできた人なので、

優しくしてもらうとしがみついてしまうところがあるのかもしれない。

それが相手に重かったり、自分のことを信頼してないと言わせることになるのでしょうか。

 

ああ、私本当に、言語化が下手だな。

自分の気持ちひとつまともに紡げないで、架空の人の気持ちが描写出来るんだろうか。

 

こんなどうしようもない私を、読んでくれてありがとう・・・!

 

 

《今日の野菜》

昨日はメモのタイミングを失ってしまったので、2日分!

・大根(きんぴら風) 

・ふかし芋(八百屋のおまけ)

・大根(煮る)

・にんじん(パスタ)

・カット野菜(味噌汁)

魂の世話をせよ。

あの時きみが「は?」って言った。
その短い言葉が、何日も刺さって抜けない。

 

起こった出来事があまりにも大きすぎると、文字の世界に逃げ込んでいる。

そんな生活、もうどのくらい続けただろう。

 

父親には役に立たん本ばかり読んでと叱られた。

クラスメイトとは話が合わなかった。

国語教師には煙たがられた。

 

だけど私は、いつも何かが上手くいかなくて。

落ち込む代わりに、ますます本にのめり込んだ。

 

特売の大根を凄い勢いで切って、これまた特売の鶏肉と煮る。

醤油と味醂を回しかけ、ぼんやりとアクを取りながら、お気に入りの炭酸のプルタブを開けた。

 

料理当番の時だけ飲むことにしているそれを開ける時、いつもプシュッと小気味よく聞こえる音も好きだった。

なのに、今日は少しだけ濁って響いた。

文字にするならプシュケッ、と。

 

プシュケ。

それって、ギリシャ語かなにかで、生命とか心とか魂って意味じゃなかったっけ。

ソクラテス曰く、

「よく生きる」ためにはプシュケを気遣え。プシュケの世話をせよ。

 

玄関のドアが開く音。母が勤めから帰ってきた。

「ただいま。あー、いい匂い。お腹すいちゃったー。今日なあに?」

「……大根煮てる」

「やったー」

 

プシュケは、確か文脈で意味が変わるのだ。

まずはこの人のプシュケの世話をしよう。

そして明日は「は?」の意味を、怖いけど頑張って聞いて。

どうなるかわかんないけど、私から謝ろう。

 

アクを取り切った鍋を覗いて、私は炭酸を飲み干した。

 

(30分)

 

 

 

おまえじゃなきゃだめなんだ (&野菜メモ開始)

角田光代さんを読みました。

という話ではありませんで。

いや、読んだのは本当なのですが、

今このタイトルが気持ちの上でドンピシャなのが事実です。

 

誰かとの関係性を構築する過程で私は

『今日こそ絶対嫌われた、もうお誘いは来ないだろうな』

と誰に対しても1人反省会を催してしまう方です。

 

しかし自分の中でそこを乗り越えてしまうと、

変な安心感というのか身内感というのか、

勝手にこっち側判定してしまうというのか、

気持ちが大きくなって言いすぎてしまうのか、

その時の相手の受け取り方に気づけないところがあって。

 

有り体に言えば、喧嘩をしました。

第三次大戦。


結局その人に固執する理由ってなに?

 

果たしてあまり人に関心がないのか、内面に向きすぎて行くのか。

破綻するのはどちらなんでしょうね。

 

そして、

私がその人じゃなきゃ、と思う理由はなんなんだろうなあ。

 

これは第二次大戦の時も散々悩んだのですが。

当時の日記が、すんごい暗いポエムみたいだった。

 

昔から、
話してる時に「なんでおぼえてないの」と「同じ話ばかりしてるよ」はしょっちゅう言われ、グサグサ刺さってきました。

逆にみんなは何でそんなに覚えてるの?

同じ話しないで済むの??

と誰彼問わず問いただしたい気持ちがずっと渦巻きっ放しですが、ひとまず置いといて。

 

自分では人付き合いが苦手な方だと思っているし、なおかつ話した内容をあまり覚えていられないので、普段は相手に対する情報量を増やし過ぎないように気をつけています。

一対一がいちばん無難。

だけど一方で、仲良くなれたと思ったら、もっと相手を知りたくなる気持ちも強まってしまって。

 

相反するそのへんがせめぎ合って、

だからダメなところが出やすくなって、ふとした拍子に「もう知らん」に陥るのでしょうか。

落ち着くとダメって、、、。(子供か)

 

好きな人と興味ない人との差が激しいとも言われがち。白黒ハッキリつけがち、とも。

なるべく相手にレッテル貼らないように、勝手に決めつけないように、と心がけてます。

 

考えすぎ?

 

その人を好きな理由は…

言葉のチョイスとか考え方とか私にはない才能や特技とか(それはイコール努力なのでしょうが)、

自分は到底真似出来ないと感じて、尊敬するポイントが多いとこかなあ。

 

まだフェードアウトしたくない、諦めたくない、もっと話してたい、となんて理由は、

シンプルなだけにエゴだらけで、伝えてしまうと下らないし、どこか嘘っぽいと感じて、ぐるぐる思考が一旦止まりました。

 

今日は下書きなしだよ。読みにくいね!

 

 

《今日の野菜メニュー》

・じゃがいも(マッシュ)

ブロッコリー(パスタ)

日曜日は大根ときのこ。

 

※⬆土曜日に弟の勧めでマクロビオティックの相談会に行ってきました。アドバイスを元に、日曜日から野菜中心メニューを始めてます。

料理大嫌いで冷食ばっかりな私が、どこまで続くか……。

先生には「まずは半年頑張れ!1品からでいい」と言われたので、モチベ保つためにも、できる範囲でここに記録させてください~

 

 

 

 

処方薬難民

ここ3週間ほど、手に地味な痛みが続いていて気になったので、ようやく通院出来ました。

1時間半待って診察が終わって、処方箋を貰ったのが夕方遅い時刻で。

有効期限は週明けまでだけど、薬なしで週末過ごすのも不安なので、夕飯を済ませた後、遅くまでやっている薬局を見つけて自転車を飛ばして行って来たのですが。

 

家を出る前にネットで処方箋画像を送信し、

到着してから在庫の確認をしてもらい、

やれやれこれで安心とクリスティを読みながら待っていたら……

「やはり在庫ありませんでした」と言われてしまいまして。え?なんで??

 

違う薬でもいいか明日医師に確認するのでもう一度来てください、とのことでしたが、私は明日用があって、日曜しか受け取れないんですよね……。

 

ネット送信してから今までの90分なんだったん?

誰が悪いん?

という話でしたー。

超寒かったー。

 

 

分かり合えやしないってことを、あなたと分かり合えたら。

八方美人な自分が嫌いだった。
誰からも嫌われたくないなんて、とても弱い人間の考えなのではないかと。
周りを気にせず言うことはちゃんと言える人が羨ましかった。

実はあの時とても嫌だったと後から言われたら、
それを正面から受け止めるのはなかなかキツい。
関係を断ち切っしまうのは簡単だし、
それ以上立ち入らせず心を閉じて、適当な社交辞令で距離を置くことも出来た。

だけど今苦しくてもこの人とこの関係を続けたい、その先へ行きたい、と願う私は、
一体何を欲しがってるのかな。


痛々しい正論をかざすことなく、
本音を引っ込めたままでもなく、
傷つきやすいと知りながら
魂の奥底の情熱を
平気そうな顔して恐る恐る晒す私。

分かり合えないと分かった上で、
それでも分かろうと努力をして、
結局全然分かんないねって
笑いたいんだ
あなたと。

空気の痛みやザラつき、覚えてます?

昨日は、10月までお世話になっていた会社のミニ忘年会に参加していました。

少人数の集まりで、いろいろな話題が出て興味深かったので、ここで気の向くままに少し広げてみようかと。

 

まずは、『幼少期の気候はその人の人格形成に影響ある説』について。

北国育ちのKさんが力説していました。

 

曰く
・俺の田舎には除湿機しかない。
・布団はいつもべしょべしょ。
・雪が降った方が湿度が上がるからあったかく感じる。ずっと積もっていて欲しかった。
・東京の寒さは痛い。地元はしんしんと寒い。

・湿度が高いから肌は潤ってる。でもふとんは氷の中みたい。
・自分の熱をいかに逃がさないかに命を賭ける。
・寝る前布団に入る時には気合いをいれる。

 

冬にはあまり良い思い出がなく、でも思い出すのはそればかりらしいです。

地元よりは学生時代を過ごした札幌の方が、断熱がしっかりしていて快適さが全く違ったそうでした。

少年時代には、どんよりしたイメージがあるのだとか。

あくまでKさん個人の感想ですけど。

 

私の生まれは四国で、三年ほど北陸にも居ました。

その後はずっと関東です。

 

私の生まれた地域の気候の特徴といえば、降水が少なくて生活用水の不足が当たり前だったのと、雪がほとんど降らない温暖な環境だったってことでしょうか。

考えてみれば、雪が降ると未だに嬉しいですし、朝起きた時にカラッと晴れているとテンション上がってしまうところはありますね。

 

生まれたのが北陸で少しだけ過ごしたのが四国だったら、また違う印象を持ったでしょう。

肌に触れる空気の感触というのか、吸い込む湿度や匂いや温度、時には痛みとかザラつきとか。

特別な何かがあった時ではなく、日常よ中でふだん当たり前に感じていた、慣れ親しんだ(物理的な)空気の感覚って、同じ場所に住んでいても、家族やきょうだいでさえも、もしかしたら少しずつ違っているのかも知れません。

 

そんなものの積み重ねがその人を形づくっていくと考えると、なんだか面白いです。

人の数だけありそうで、片っ端から尋ねて周りたくなっちゃいます。

 

因みに、散々北国について語っておきながら、Kさんの出身は大阪だそうですけどね。

そういえば、大阪の話はあまり出なかったなー。

Kさんに取っては、それだけ北国の空気が印象的だったのでしょうね。