話すのと 書くのの あわいに

書きたくてどうしょうもない、しょうもないこと。

震災を『知らない』私

あけましておめでとうございます。

新年早々地震ですね…。

被害が最小に留まりますよう祈ります。

 

今回の地震では、生き埋めになったり倒れてきた家具に足を挟まれたりして逃げ遅れ、電話も繋がらなくてSNSに住所や本名を書き込んで助けを求める投稿を幾つも見ました。

 

8分前の投稿などと表示されていると、既に誰かが通報していると思いながらも、拡散せずにはいられず。

その人の苦しみが文字を通して移ったのか、気づくと涙がボロボロ溢れて止まりませんでした。

 

阪神大震災の時私はまだ学生で正直ピンと来ていなかったし、東日本大震災の時は別のことで日常的に命の危険に晒されていました。

現代を生きる大人の癖に、震災を経験したなんて自分の中では言えない気がずっとしていて、『同世代国民としての共通体験の欠如』とでも言うのでしょうか。

共通の悲しみや苦難を感じることがなかったため同じ出来事に対して語る言葉を持たず、私はこの点に関して長年社会からの疎外感を抱いていました。

なのに今、なんでこんなに号泣してるんでしょうか?

 

気持ちの上ではなんの感情も湧いていません。

謎に涙が出る、それだけです。

 

地震の記憶はそれ自体よりも、その頃晒されていた命の危険と無意識に結びついているのかもしれません。

具体的な怖さはもう感じませんが、テレビの中で号泣している人の夫や妻じゃなくて、私を脅すあの人が死ねば良かったのに、と頻繁に思っていたりしたので。

 

涙が止まらないことをSNSに投稿したら、友人に「スマホとテレビから離れて違うものを見た方がいい」と助言され、その通りにして落ち着くことが出来ました。

 

自分の反応が、最大の謎なのかもしれません。

謎を少しずつ解いていく年に出来たら。